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第7官界彷徨

第7官界彷徨

佐藤勝明先生のおくのほそ道 その5

2015年2月15日
 NHKラジオ第2放送、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」

 まずは芭蕉さんの生涯をたどる。「猿蓑」より。 

 それまでの俳諧の中心であった「貞門」「壇林」は親句といって、前の人の句を元に知識によって次をつけるものだった。芭蕉はそれに対する疎句=想像力を駆使して句を作り、俗ではあるが下品ではない、という境地を編み出した。

 まずは猿蓑の恋の句

*草庵にしばらくいてはうちやぶり    芭蕉   (西行をイメージ)

*命うれしき撰集のさた          去来    (古今集をイメージ)

*さまざまに品かはりたる恋をして   凡兆    (平安の歌人に心を寄せて)

*うき世の果てはみな小町なり      芭蕉   (恋の遍歴ののちの老後)

 類題の形式をとらず、発句集も配列によって面白みを出している。時雨の冬からはじまり・夏・秋、近江の人との春で終わる。

 そして「続き」(配列)によって出る「模様」(味わい深さ)を出している。浮世の果てはみな小町なり、の句は、芭蕉一代の絶唱とも言われているそうです。

夏の句から

*大坂や見ぬよの夏の五十年    蝉吟  (19歳の芭蕉が伊賀上野で仕えた2歳年上の藤堂家の嫡男蝉吟。彼の祖父は、5月6日、大坂夏の陣陥落の前日、討ち死にしている)

*夏草や兵共がゆめの跡      芭蕉 (義経が奥州平泉のいくさで討ち死にした場所で)

 どちらも、戦で命を落としたもの。広く戦死者を追悼する趣。盛者必衰のことわりを。それにつなげて「虫尽くし」の句が・・・

*這出よかひ屋が下の蟾(ひき)の声    芭蕉

*かたつぶり角ふりわけよ須磨明石    芭蕉

*五月雨に家ふり捨ててなめくじり      凡兆

 追悼の句のあとになぜ虫が出てくるのか。無常を前提とする荘子の「万物斉同」万物は道の観点からすれば皆等しく価値がある、を句の配列によって表現している・・・のだそうです♪

では、おくのほそ道本文より

『全昌寺』

大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、

*終宵(よもすがら)秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもと まで追来る。折節庭中の柳散れば、

*庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ  =

 芭蕉より先に旅立った曾良の日記では、大聖寺を出て全昌寺に泊まる。とあり、これ以降曾良日記には曾良の工程のみが書かれているので、今までの彼に感謝しつつ、私たちも曾良と別れなければならない・・・のです、とのこと。

  山中で曾良と別れた予は、かつて大聖寺城があった場所の公害の全昌寺という寺に泊まります。ここはまだ加賀の国なのでした。

 曾良も前夜この寺に泊まっていて、句を残していた。

*寝つけなくて、裏山から吹く秋風を一晩中聞いてすごしたことだ  (この句は猿蓑にもあり、曾良の自筆の短冊も残っているそうです)

 曾良日記では8月7日の朝、好天になったので全昌寺を出立、とあるので、芭蕉は7日の夜泊まったらしい。

 一夜の隔ては千里離れているのと同じ。予もまた秋風を聞いて寝られず、横になったまま寝付けずに夜明けを迎えた。早朝の勤行の声が澄み渡っているのを聞いているうちに合図の音があって食堂に入ります。

 今日は越前の国に入ろうといそいで出発しようとすると、若い僧たちが紙や硯をかかえて階段の所まで追いかけてきました。ちょうど庭の柳が散っていたので

*庭掃いて・・・寺に泊まった修行僧が一夜のお礼に庭を掃いて出立する姿

 の句を、わらじを履いたままとりあえず書いてきたのでした。この部分で、読者は今までの旅の中での似たシーンを思う。たとえば旅のはじめの頃の那須で、馬を引く男から句を求められた思い出など・・・など。
 この全昌寺は、平成の今でも、芭蕉の宿泊した場所として、見所満載だそうです!

2015年2月22日
まずは芭蕉さんの生涯から。細道の旅から帰った芭蕉は、元禄3年、1690年に義仲寺に 滞在中、3月から4月末まで、門人の曲水の伯父がかつて住んでいた幻住庵で暮らします。その折の「幻住庵記」は何度も推敲された俳論で、芭蕉の苦闘のあと が見えるものらしい。

本文はじめの部分=石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き 流れを渡りて、翠微に登ること三曲二百歩 にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益の塵を同 じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹軒をかこみ、屋 根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、今は八年ばかり 昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。=

本文終りの部分=つらつら年月の移り来し拙き身の料を思ふに、ある時は任官懸命の地をうら やみ、一たびは仏離祖室 の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋に つながる。「楽天は五臓の神を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。

先づ頼む椎の木も有り夏木立=

  つらつら長年過ごしてきたわが身を思えば、ある時は任官して領土を得ることをうらやみ、ある時は仏門に入ろうとしたりしたが、行き先定めぬ風雲 の旅に身を苦しめ、花鳥を愛でることに心を使い、ついに生涯のこととなり、無能・無才にしてただこの俳諧という一筋につながることとなった。

「白楽天は詩作に苦しんで全身を弱らせ、杜甫は詩作に苦しんで痩せたとまでいう。私は白楽天や杜甫の才能には遠く及ばないが、どちらも幻の住みかのようなものだ」と思い、それ以上は考えることをあきらめ生きてきた。

 旅に旅を重ねた末、私はここようやく幻住庵に安息の地を得た。庭を見ると椎の木が立っている。まずはこの椎の木陰を頼んで、くつろぐとしよう。

次におくのほそ道

本文=越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

*終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松    西行
 此一首にて、数景(すけい)尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。
 丸岡天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつヾけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて、

*物書て扇引さく余波哉
五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。=

  加賀と越前の国の境の吉崎から船で 汐越の松を尋ねました。西行の「よもすがら」の歌でも知られる場所。(本当は蓮如上人の作だが、近松の浄瑠璃などでは西行の作となっており、芭蕉も西行作 と思っていた。ほそ道の旅は、西行500年忌の年に行われた。今まで西行を表面的に出していなかったが、ここで絶賛!
松が波しぶきをかぶり、まるで月の光をしたららせているようだ。予は、この一首でこの地の景観は詠みつくされていると思うのだ。
 もしもこの歌に対して一言でも付け加えようとするものがあれば、それは無駄なこと=荘子の考え方。

 そのあと、旧知の天竜寺の長老を訪ねます。この人は以前品川の天竜寺にいたことがあるのです。

 ここで、金沢からついてきた北枝と別れます。金沢蕉門の代表的な人となる北枝は、道中の風景を見逃すこともなく、折々情趣にあふれた作意をみせてくれたが、もはや別れとなった。そこで

*扇を半分に引き裂いて分かれるとしよう

 という句を書いて辛い別れをしたのでした。

 北枝は2年後の元禄4年(1691年)兎辰集に、この日の句を入れたそうです。それには

*もの書きて扇へぎわくる別れかな   翁  (貼った2枚の紙をはがす)とあるそうです。

 そののち、およそ5,5キロほど歩いて永平寺を礼拝します。修行のため京を離れこのような山の陰に寺を開いた道元禅師の足跡に尊さを感じる予なのでした。


2015年3月1日
今週のNHKラジオ第二放送、古典講読の時間。佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、曾良と別れ、再び北枝と別れて旅を続ける芭蕉さんが、永平寺から福井へ行くところ。

 まずは芭蕉の生涯から。

ほそ道の旅を終えて2年間の上方滞在中、最も力を入れた「猿蓑」の中の「幻住庵記」。

 繰り返し推敲された最終段階で加えられた部分は、俳諧一筋で来た自分と白楽天や杜甫たち、何か幻でないものがここにあろうか。幻住を全体とした万物皆同の考えにゆきついている。

 なぜ芭蕉は句だけで満足しないで、文章にもこだわったのか。

 中国では詩と文があって始めて完全なものとされていた。日本でも和歌があり和文がある。芭蕉は俳句も同じようにしたかった。

 猿蓑は、1691年7月3日にやっと刊行し、その年の10月29日に江戸に帰着した芭蕉。芭蕉庵は人に譲ったため、杉風の計らいで深川に新しい芭蕉庵を作りすむのは1692年5月中旬。

そのころの歳旦句

*人の見ぬ春や鏡の裏の梅

  芭蕉は当時の俳壇の流れに否定的な気分だった。世の中には正しいことが行われない動きがある、と思っていた。それは江戸俳壇を覆っていた点取り俳諧への不 信感。点取りは、門人の俳句に点をつけて評価すること。点取りでは平明な言葉を使いわかりやすい中での詩情「軽み」の詮議など思いもよらないことだった。 (知識や気の利いた句が高得点を得られる)。

*うぐひすや餅に糞する縁の先

 糞という語を使いながら下卑てはいない。 服部土芳が芭蕉の教えを書いた書の中に、芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と説いた言う。及ばないところとは「俗」を意味し、

・詩(漢詩)歌(和歌=公家のもの)連(連歌=和歌に準ずるもの)

  詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の正当な文芸で、俳諧はお遊び芸といわれるが、俳諧もまた他の3つと同じく風雅である。そして俳諧は他の3つが詠まない ことも詠む、そしてそれは、作者が見て聞いたことすべてを詠むことができ、そこに真実「風雅」があるのが俳諧なのだ。「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並 ぶ独自性が高い文芸にあるのだ、と。

では本文「福井」

=福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たどゝ し。爰に等栽と云古き 隠士有り。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。 遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将(はた)死けるにやと人に尋ね侍れば、いまだ存命して、 そこゝと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に、夕貌・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木ヾに戸ぼ そをかくす。さては、此うちにこそと門を扣けば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものゝ 方に行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、 名月はつるがのみなとにとたび立つ。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。=

 福井は永平寺から3里ほどなので、 夕飯を食べてから出立。たそがれ時なので道はだんだんおぼつかなくなってくる。ここに等栽という隠士がいて、江戸で予をたずねてきたとこがあった。10年 余り前なので、どんなに老いてしまったか、死んでしまったか、と思いながらも人に聞けば、まだ生きており、家の場所も教えてくれる。

 その家は、町中の粗末な家で、夕顔や帚木に囲まれているのだった。

 中国の言葉に小隠=大したことがない隠者は山に隠れる

         大隠=本物の隠者は街中に住む

 とあり、源氏物語の夕顔の住まいにも似て、自分と同質のものが住む家と感じてうれしい予なのでした。

 そこには美女ではなく、侘しげな老女が登場し、「どこからおいでのお坊さまでしょう。主は近くに出かけておりますので、そちらにいってください」というので(ははあ、これは彼の妻なのだな)とわかる。

 昔の物語にも、こうしたおもむきがありそうだ、と思い、等栽と会い、その家に2泊した。

 源氏の夕顔に「昔物語にこそ、かかる~と聞こえ」とあるらしいので、予は源氏の夕顔の住まいを連想している。

 敦賀で名月を見よう、ということになり、一緒に見よう、道案内をしようと、等栽は尻はしょりをして浮かれたって先導していくのでした。

 源氏物語の夕顔は、私の好きな玉鬘の母なのです。玉鬘は母亡き後、乳母に連れられて北九州に渡り美しく利発な姫として成長します♪

2015年3月15日
今週のNHKラジオ第2、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「おくのほそ道」は、色ヶ浜。

 まずは芭蕉さんの生涯をたどる。言葉の縁を頼った真句を否定して十数年、軽みの成功は芭蕉七部集にもなった「炭俵」より。

 これの編者は、江戸の両替商越後屋の番頭と手代。野坡、利虫、孤屋の3人。炭俵は七部集のなかで唯一江戸での撰集なのだそうです。

 元禄7年6月28日に巻かれました。

*梅が香にのっと日の出る山路かな    芭蕉 (視覚)

*ところどころに雉子の啼きたつ      野坡 (聴覚)

*家ふしんを春の手すきにとり付て     野坡 (暇な時に家の普請を)

*上のたよりにあがる米の値  芭蕉  (上方からの便りでは米の値段があがったそうな=農家には朗報)



*東風風に糞のいきれを吹まはし       芭蕉    (働く農民を想像)

*ただ居るままに肱わづらふ          野坡    (働いていない人) 

*江戸の左右向ひの亭主登られて      芭蕉     (江戸に行った人が帰ってきた)



*奈良がよひ同じ面なる細基手        野坡    (奈良に行く小商いの人)

*今年は雨のふらぬ六月            芭蕉    (暑い道中を想像)

 想像力をたくましくして、徹底的に考え抜く。ここまできた芭蕉の「軽み」。

 次におくのほそ道には載せなかった芭蕉翁月一夜十五句より

*中山や越路も月はまた命     越の中山

*国々の八景さらに気比の月    気比

*月清し遊行の持てる砂の上

*月いづく鐘は沈める海の底   鐘が崎

*月のみか雨に相撲もなかりけり   浜

*古き名の角鹿や恋し秋の月     湊

* 名月や北国日和定めなし     海

*衣着て小貝拾はん種の月



 本文

=十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。

 浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰(ここ)に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。

*寂しさや須磨にかちたる浜の秋

*波の間や小貝にまじる萩の塵

 其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。=



 西行の歌の *汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらむ

を胸に、西行と同化するために予も種の浜に舟ででかけます。距離は海上七里。(実際は二里)

 ますほの浜は敦賀湾の北西にあり、この舟を出してくれたのが敦賀の廻船問屋で俳人の天屋某。彼は白木の折箱や竹筒にご馳走や酒など細やかな準備をし、多くの召使を舟に乗せたので、追い風とともにすぐに到着します。

 浜にはわずかの海士のそまつな小屋があるばかり。そこに侘しげな法華の寺があり、そこで茶や酒を飲んでの夕暮れの寂しさはまた感動的なのでした。

*寂しさや須磨にかちたる浜の萩   須磨よりもこの浜の秋のさびしさは勝っている

*波の間や小貝にまじる萩の塵    波の間に小さな貝に混じって萩の花びらが散っている

 その日のことは、等栽に書かせて寺に残す予なのでした。 

西行の歌の *とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし(寂しさこそがさびしい暮らしのなぐさめになる)を心に思いつつ。

2015年3月22日
 おめでとう!ほそ道は終点の大垣に到着しました!

 まずは芭蕉さんの生涯から

 かつての貞門、談林の真句から、疎句の世界へ進んでいった芭蕉。分かりやすい表現を通して場面を浮かび上がらせる蕉風を突き詰めていきます。

 蕉風三変といわれるものの代表は

1・冬の日    風矯

2・猿蓑     軽みと風雅

3・炭俵     より日常に寄り添った軽み

  炭俵は元禄7年(1694年)の刊。この頃、同時に行われたのがおくのほそ道の執筆で、その時期がわかるのが最初の稿では「故」こほう、となっていたの が、元禄7年に出された西村本では「故」の字が消えている。こほうがほそ道で芭蕉に出会ったのは元禄2年。元禄5年6月に没。ほそ道は元禄6年に書きはじ めた。

 芭蕉はまた西国への旅に出ます。

 落柿舎の芭蕉に届いたのは、芭蕉庵に住む寿貞尼の死の便りでした。芭蕉と寿貞尼の関係は謎らしい。

*数ならぬ身となおもいそ玉まつり  (自分が数ならぬ身とは思わないでほしい)

 芭蕉は江戸から伊賀にたずねてきた支考とともに「続猿蓑」の執筆を始めます。奈良から大阪へ旅は続きます。

*朝露に汚れて涼し瓜の土

*飯あおぐかかが馳走や夕涼み (家庭を持たなかった芭蕉の家庭的な句)

*この道やゆく人なしに秋のくれ

*この秋は何で年よる雲に鳥 (体の衰えを感じる)

 同じ頃、畦止(けいし)の家で

*月澄むやきつねこわがる稚児のとも

 ではおくのほそ道本文

= 露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も 馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のも のにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、

*蛤のふたみにわかれ行秋ぞ  =

 敦賀から大垣までは省略されているが、曾良も先に同じ道を行ったとすれば曾良日記では11日敦賀発つ長浜泊。12日長浜から舟で彦根。13日、多賀神社に参り関が原。13日、樽井町から大垣着。

 敦賀の港に露通が迎えに来てくれて、ともに美濃の国へ行く。馬に乗ったりしながら大垣に着く(8月21日)。

 露通は最初は、ほそ道の同行予定だったが、芭蕉と二人での長旅を嫌い行方をくらました自由人。

 曾良も伊勢から来て再会。名古屋の「おち」は馬を飛ばして来てくれてともに如行の家に集まります。

 如行には山中から芭蕉が文を出しており、「今は加賀の山中にいる。大垣に着いたらそこもとのところに行くので、門人たちに連絡してほしい。7月29日」というもの。

 如行は大垣藩士。前川も大垣藩士、荊口も大垣藩士で「芭蕉翁月一夜十五句」を書き残した人。

 この最後の場面で、芭蕉はほそみちの出発と到着の対比のシーンを構成しています。

冒頭:むつましきかぎりは宵よりつどひて

大垣:したしき人々日夜とぶらひて

冒頭:幻のちまたに離別の泪をそそぐ

大垣:蘇生のものにあふがごとく、且つよろこび且ついたはる

そして、深川から舟に乗って出発した旅を、再び伊勢に向かって舟で旅立つのです。

 長旅の疲れもまだ抜けていないのに、9月6日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗って旅立つ。「古人も多く旅に死んだのだ。」

*蛤が蓋と身に分かれるように、伊勢の二見が浦にむかう別れのつらさ。「行く秋」は冒頭の

*行春や鳥啼き魚の目は泪   に呼応して。この句は出発時ではなく、ほそみち編集時に作られたらしい。


2015年3月29日
NHKラジオ第二、古典講読の時間の「おくのほそ道」が最終回になってしまった。1年間佐藤勝明先生のお話を聞いて、すっかり芭蕉さん贔屓になりました。感謝です!

 まずは、芭蕉さんの生涯。

 元禄7年(1694年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子次郎兵衛と江戸を発ち、故郷伊賀上野に向かいます。

 5月28日伊賀上野に着き、その間近江や京都にも行き、7月、伊賀上野に落ち着きます。

 大坂で之道という門人と酒堂という門人の縄張り争いがおき、芭蕉は大坂に入ります。兄に体調悪い旨の手紙を書きますが、連日の句会は怠りません。酒堂はその後、俳句の世界から消えてしまいます。

 9月28日には *月澄や狐こはがる児(ちご)の供

 の句を作る。29日、之道の家から貸し座敷花屋に移り、門人たちが見守ります。

 呑舟を呼んで芭蕉が筆記させたのは

*旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 でした。これは病中吟として、芭蕉には辞世の句の意識はなかったようです。最近、この句について、貫之、能因、西行を意識して、自分もその一人となって難波の葦原を駆け巡っている、、、との説もあり、興味深い、とのことです。

10月9日、6月に詠んだ句の推敲をします。

*清滝や波に 散り込む青松葉

 これが芭蕉の生涯最後の句で、かれは最後にこの清らかな句を成したのでした!

10月10日、暮れ方より高熱が出て容態急変。書物などを門人に分け、兄半左衛門に手紙を書く。

10月11日、食事を止め、身の回りの整理。江戸より宝井其角が来る。夜、看病してくれている門人内藤丈草の

*うづくまる薬の下の寒さかな   の句を褒める。

10月12日、申の刻午後4時ごろ 没 享年51歳。

10月13日、朝、舟で伏見を発ち、昼過ぎ近江の義仲寺に運ばれる。

10月14日、葬儀。門人80人、会葬者300人余。俳諧ひと筋に生き、俳諧の歴史を変えた芭蕉はその生涯を閉じた。

 では、本文「おくのほそ道」

 おくのほそ道は、晩年の芭蕉が精魂かたむけて書いたもの。原稿用紙で35枚ほどで簡単に読めるものだが、深く読もうとすると難解。

 それは、文章にも内容にも省略が多い点。文章は漢文的にきびきびしたもので、内容は小段ごとに内容をしぼると理解しやすいらしい。

芭蕉は何が書きたかったのか。冒頭の部分

  『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く 旅 に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ 年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず』

 これについては、これこそおくのほそ道の真髄!という説と、これはただの書き出しに過ぎない、の説があるそうです。事実として、ここには「無常」が示されているらしい。

元禄2年(1689年)ほそ道の旅に出発した芭蕉は、同年8月21日に大垣着。2400キロの旅でした。

 大垣から伊勢に向かい、江戸の深川に新たに芭蕉庵をつくるも、上方への旅、ふたたびの江戸での生活を経て元禄6年(1691年)おくのほそ道の執筆を開始し、翌元禄7年4月、西村本が完成。それを携えての上方への旅が最後の旅となりました。

 おくのほそ道は、読むにつれてさまざまなテーマが現れる作品であり、しかし、その中で繰り返されるのは「古人との出会いを求める予の姿」と、各地におかれるキーパーソンともなるべき人々との出会いであり、序破急にのっとった構成なのでした。

 




















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